【幕末の話4】反復修習によって磨かれる。
京都守護職、松平容保の配下に、有名な新選組がある。
新選組も、戊辰戦争で最後の最後まで幕府側で戦った存在だ。
ところで話は変わるが、昭和生まれで、子供の頃にプロレスを見てた人が、おそらく考えたことのあるだろうテーマを少し考えてみたい。
ジャイアント馬場という日本を代表するプロレスラー。
とても有名な選手だが、果たしてあの「空手チョップ」は痛いのだろうか?
動きがスローだし、あんな倒れ方は大げさだろ!……と子供の頃の私は思っていた。
が、大人になって冷静に考えてみると、痛くないわけがない、と想像できるようになった。
ジャイアント馬場は身長208センチだ。手を振り上げると、3メートル近くの高さになる。
もし3メートルの高さから、立派な国語辞書(1キロほど)が自分の頭に落ちてきたらどうだろうか?
実は人間の手の重さだけで、体重の1パーセントほどだという。ジャイアント馬場は135キロなので、手のひらは1.35キロとなる。腕全体で言ったら、10キロ程。
3メートルの高さなら、ただ腕を落とすだけでも間違いなく痛い。ジャイアント馬場はそれを力を込めて振り下ろす。
しかも彼は元プロ野球選手、ジャイアンツのピッチャーだった人だ。
ジャイアント馬場の3メートルの高さから振り下ろされた掌の側面、当たって痛くないわけがない。
なぜこんな話をしているかというと、尊攘派浪士を捕まえる、と口で言うのは簡単だが、実際の現場では浪士が集まっている所に、飛び込んでいかなければならない。
同じように想像してみたい。
相手は刀を持った手下人である。彼らは国家権力に刀をもって犯行をする気概も持っている。決して「やわ」ではない。
さて、そんな彼らが集まっている現場を押さえたとしよう。捕えるために、潜んでいる建物を大人数で取り囲んだとしよう。数はこっちが優位だ。
でももしあなたが捉える側の武士なら、、、一番にその屋敷に飛び込んでいけるだろうか?
当然だけど刀は、怖い。切られるのは、痛い。
実際、幕末京都では、名前だけ武士で、惰性に満ちた生活を送ってきた役人たちは飛び込めなかった。取り囲んで、ヤーヤーと大声を上げはするけれど、誰も踏み込めない。現場で使えるような技も勇気も磨いてこなかった。
踏み込んだのは、会津藩士だ。常日頃から、武士としての腕と心を磨いてきた。
そして、その配下として活躍した新選組の面々だった。新選組が壬生浪士組と呼ばれていたころ、八月十八日の政変で長州過激派を京都から追い落とした。そして名前が新選組に変わってたのちの「池田屋事件」が彼らの名を今に響くほど有名にした。
池田屋--30名近くの過激浪士の集まりに、新選組は最初、近藤勇を含むわずか4名で飛び込んだ。
近藤勇らは、実は由緒正しい武士ではない。郷士という身分だった。郷士は農民以上武士未満という位置づけの、純正の武士からしたら下に見られる立場だ。だからこそ、彼らは「武士しての存在価値」を、剣の実力とその武士道たる生き方に求めた。
新選組の隊士たちは剣の実力があるという点で会津藩士と一致していた。そして、新選組の一字は「誠」であり、義の為に命を懸けて戦う、という部分でも、会津藩の精神と合致していた。
反復修習によって技が磨かれる。
そして反復修習によって私達の心も強くすることができる。逆に弱くすることもできる。
会津藩士としての誇りと教育が、勇猛な武士を育てたように。生まれが低いからこそ武士らしく生きようとした新選組の隊士たちのように。
心を訓練して強く磨きたい、と私も切に思う。
過去の駄目だった部分は反省し修正。今からでも遅くはない。心を強く磨いていきたい。
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