【幕末の話5】使命に生きる。
言路洞開(げんろどうかい)
AI調べによると、これは君主や上役に対して意見を述べることを可能にする方針のことをいう。
松平容保が浪士対策として取った政策として有名な言葉だ。
浪士たちは「意見を聞いてもらえないからこそ過激な行動をとるのだ」と容保は考えた。
だから「ちゃんと話をすればわかる」と。
京都守護職の松平容保は、数百にのぼる天誅浪士を取り締まる役割を負っていた。京都所司代や、奉行所の役人では手に負えない過激派志士達が相手だ。
それでも、松平容保は最初から「相手も国を思っての行動なんだ」という広い心で認めようとしていた。
「その思想や、なぜそういう行動をとるのか、話を聞きたい」し、また「話せば分かりあえる」とも思っていた。
それが松平容保のスタンスだった。
だからおそらく、京都の権謀術数の中で「汚れた」権力者たちから見たら、松平容保はとても純粋に見えたに違いない。
容姿の端麗な、田舎育ちの若い御曹司--そして人々は容保を甘く見た。結局のところ、厳しくはいけない、優しいお方。
ところで私も含む私達の話。
ニュースやSNSでもそうだけど、自分とは違う価値観、行動の人を広い心で認める、受け入れるというのはなかなか難しい。
異端は排除、非難する、が大方のスタンスだ。ましてや何か事件を起こした人は許さない。彼や彼女は、関係のないその他大勢から、すべてが否定される。
でもそれはよくない。色んな意味で。
でおそらく、いじめっ子だった人が、逆に今度はいじめられるように、今度は自分に順番が回ってくる、、、。いつかどこかで。カルマの法則があるから。やったことが返ってくる。
やってしまった人は煩悩ゆえに間違えた。その煩悩は私にもある。一歩間違えば、自分が何をしていたか分からない。また、無知ゆえ残してきた、ほじくり返されたくない過去も誰にだってある。
認めよう、許そうとする松平容保はひょっとしたら陰では、奇妙がられ、笑われていたかもしれない。
ただ、京都で狼藉をする勤王志士に対し許容しようとした松平容保に、転機が訪れたのは先の「足利三代木像梟首事件(きょうしゅじけん)」だった。
鴨川の台の上に、像の首だけが据えられ、そこに「天皇への逆賊者たち」というようなことがかかれていた。
そして「更に罪を被る事になるのが現在の徳川将軍だ」というような言葉が添えられていた。
この事件を境に、松平容保のスタンスは大きく変わった。
「言路洞開」の道は閉ざされた、と。そういう段階はもう超えている、と容保は気づき、心は決まった。
浪士たちの動機が憂国の思いから攘夷や尊王と変化し、そして彼らの暴力が、倒幕ーー徳川将軍の首へと向けられているなら、断じて許すわけにはいかない。
彼の最大の使命は、徳川将軍を守る事、だからだ。
それが会津藩の、数百年近くの教えである。
そして洗練された武士はきっと、使命に生きる。
こののち、松平容保はあの有名な新選組を配下に置き、京都の町での過激派浪士を徹底的に弾圧していった。
そして日本史でも勉強する、八月十八日の政変や、池田谷事件がこの後に続きーー禁門の変、戊辰戦争へと歴史が大きく動き出すことになる。
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