【幕末の話3】善き友と交われ。
潜入捜査――というスパイ捜査活動がある。
例えば、警察官が麻薬密売組織に正体を隠して潜入し、内情を探るというようなものだ。信頼を得つつ相手方の中枢に近づくが、こちらの本当の素性はバレてはいけない。バレたら、終わりだ。何をされるか、と考えると非常に恐ろしい。また、およそ長期の捜査となるため、ずば抜けて強い忍耐力、精神力が必要となる。
日本にヨーガを伝えたと言われるのは中村天風さん。
彼もまた、日露戦争のときのロシアのスパイだった。極寒の地での捜査、何度も死の間際まで追い込まれたそうだ。
ラーマーヤナでも、ラーヴァナ軍から派遣されたスパイの話が出てくる。そのスパイは捕縛され、戦争法規に沿うなら「殺されるのが妥当」なのだが、ラーマは一切罰することなく彼らを解放する――これはとても感動的なシーンとなった。
が、今は時代を幕末に戻そう。
大庭恭平という会津藩士。
彼こそが京都、天誅浪士の中に派遣された、会津からの「潜入捜査官」だった。
前に書いたように、会津藩には家訓がある。
「将軍に対し一心大切に忠勤に励め。それができなければ我が子孫ではない」
保科正之から代々受け継がれきた教えだ。
だから動乱の続く京都で、「足利三代木像梟首事件(きょうしゅじけん)」という一風変わった事件が起きたとき、松平容保は強い衝撃を受けた。
梟首(きょうしゅ)とはさらし首のことだ。
天誅騒ぎで、河原に人間の生首がさらされることはたびたび起こっていた。が、今回さらされていたのは、等持院から奪い去られた、足利尊氏、義詮、義満の「木像」の首である。
そばに「逆賊足利尊氏・同義詮・同義満――」というような立て札が書かれている。
かつて天皇を窮地に追い込んだ逆賊であるため、この度天誅を下した、というような意味のことが書いてあった。そのために、木像の首を切り取ったのだ、と。
松平容保は尊攘派浪士に対し、「彼らを分かってあげたい」という思いも少なくはなかった。
取締をしながらもなお、「話し合いをすれば、お互い分かりあえるはず」という寛容な思いを持っていた。しかし、この「梟首事件」を経て、自分の考えが甘いことが分かった。
「彼らが、我が徳川将軍の首を切ろうとしているのは、もはや間違いのないことだ。話せば分かる、と考えていたのは幻想だった」
松平容保は直ちに犯人の捜索を開始し、捕縛に成功した。
が驚いたのは、その犯人グループの中になんと、先の諜報員、大庭恭平が混ざっていたことだ。
実は大庭、潜入捜査官として天誅浪士の中に紛れ込んでいるうちに、自分の本来の目的を忘れ、敵方の思想に染まってしまった、という。そして彼らとともに、足利三代将軍の木像の首を切り落としたのだった。
「善友と交われ」というお釈迦様の言葉が思い浮かぶ。
「悪友とは交わるな」。悪友と交わると、その色に自分が染まってしまう。人は周りにいる人の影響を受ける。
大庭恭平が「足利三代梟首事件」に加担した――これが周りの影響力の大きさを改めて伝えてくれる。
大庭は数年の監禁の後、釈放され、最後は会津のために戦い抜くことにるのだが、それはまだまだ先の話。
その前にまた幕末の京都、松平容保の話に戻ろうと思う。
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